2007年6月10日 (日)

色のチカラ~ローズフェアとベアチャーム~

2007_roses_089 天国に 

一種類の花だけを

持っていけるとしたら

何を選ぼう?

考えたら 眠れなくなった


先日、お友達のMさんと、かねてから約束していたローズ・ミーティングを実現させることができました。

ローズ・フェアを開催中の、神代植物公園へ行ってきたのです。

Mさんには、いつも素敵な場所を紹介していただいて、大感謝です!

右の写真の後ろに見える、神殿風の建物は、2007_roses_061_1
実は休憩所で、植物園限定のバラのデザートもいただけるんです。

私は、バラのアイスコーヒーと、バラのムースを選びました。とってもおいしかったですよ♪

この休憩所の向かいに広がる、広いバラ園を、
「もし、この中の花、どれかひとつで花束をつくってもらえるとしたら」
なんて考えながら、まわりましたが、
素敵なバラがいっぱいで、大いに迷ってしまいました(笑)。

でも、その中でも、特に気に入ったのが、一番上の写真のバラ。

白地にピンクのふちが美しい、この花の名は、

ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ

故ダイアナ元英国皇太子妃の人柄、そして美貌を表現したといわれるこのバラは、
その売上金の一部が、慈善事業の支援金となるそうです。

この他にも、紫色のブルー・リバーや、黄色いゴールデン・メダリオンなど、
色とりどりのバラたちが、私の目を楽しませてくれました。

2007_roses_114 2007_roses_105_1

             










こうして、自分で撮った写真を眺めて感じたのは、
「以前だったら、こんなにたくさんの“色”を楽しむことはできなかっただろうな」
ということでした。

どうしてかというと、数年前まで、私の色の好みは、極端に偏っていたからです。

変化のきっかけとなったのは、当時勤めていた会社で、
社員教育の一環として受けさせてもらった、カラー・コーディネイトの講座でした。

そのカラー・コーディネイトは、
「あなたに似合うのは、赤です」「青です」というようなものではなく、
色をその明度や彩度によって、春・夏・秋・冬の4つのグループに分類し、
それぞれの肌や瞳の色などから、どのグループが似合うかを教えてくれるというものでした。

講師の先生の診断によると、私に似合うのは、「夏」のグループの色ということで、
全体的には、私の好みに、一番近いものでした。

でも、その「夏」のグループの中でも、最も私に似合う色として、
ローズ・クォーツラヴェンダーをあげられたときには、

「え~~~っ!?」

と、思わず叫びそうになりました。

当時の私は、好きなのは青系だけで、
ピンク大嫌いだったのです。

「よりによって、ピンクと紫なんて・・・」
と、かなりがっかりしたのですが、ピンク色の布をあてたとき、
よく似合うと言ってくれた、受講者の方の言葉に気をよくして、
試しに、ピンクのブラウスを買ってみたところ・・・

これが、想像以上に大好評だったのです。

それから、少しずつ、ワードローブにピンクや紫系の服が増え始めました。

変わったのは、服の好みだけではありませんでした。

ピンクを着ると、なんだか優しい気持ちになれるような気がしたのです。

青系やモノトーンばかり身につけていたときには、
「頭で考えて、納得できないことは許せない!」
という感じだった、私のガチガチの思考を、
ピンクのエネルギーが、優しく溶かしてくれたようでした。

こうして、「色のチカラ」を感じた私は、2007_roses
ピンクや紫以外にも、それまで敬遠していた赤や緑などの色も、「私にも似合う赤や緑」
を探して、着るようになり、
また、オーラソーマというカラーセラピーを体験してみたりもしました。

その、オーラソーマのセラピストでもある、
お友達の美智子さんが監修を手がけたのが、
右の写真のクリスタルベアチャーム

コンビニを数件まわって入手しました!

これは、「十六茶」についているおまけなのですが、
12種類の誕生石カラーがあって、それぞれの色の解説もついています。

クマちゃんの胸元には、スワロフスキーのクリスタル・エレメントが輝いていて、
「色のチカラ」を発揮してくれそうです☆

私は、自分の誕生月である、7月の誕生石、ルビーカラーと、
持っている携帯電話に似合いそうな、アメジストカラーを選びました♪

アメジストカラーは「真実」、ルビーカラーは「勇気」がキーワードとして書かれています。

これも、昔だったら、アクアマリンカラーや、サファイアカラーを選んでいたことでしょう。(今でも、基本的には青が好きで、インテリアは青で統一しているのですが)

美智子さんは、東日本橋の「天使ビル」で、定期的にセッションもされているので、
カラーセラピーに興味をお持ちの方は、ぜひ、HPをご覧下さい。

「エンジェリック・デザイン」http://www.angeliclovers.com/

2007_roses_128 美智子さんは、このバラのように素敵な方ですよ♪

そして、このバラの名は、

プリンセス・ミチコ・・・・。

私も、いつか、バラにその名を残したいものです(笑)。

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2005年11月30日 (水)

存在がわたしする

200510_059花をみるわたし

わたしにみられる花

わたしをみる花

花にみられるわたし

みつめあうと

とけあってゆく

最近、毎日、部屋にある鉢植えの花とみつめあっています。
本で読んだ「ある対象物だけを感じきる」という瞑想法にとりくんでいるのです。
つづけていると、わたしが花を感じているのか、
花であるわたしが、わたしを感じているのか、区別がつかなくなるような、
不思議な感覚におそわれます。

先日、お昼に入った喫茶店で、河合隼雄さんの本をみつけたので、手に取りました。
河合さんの本は好きで、何冊か持っていますが、そこにあったのは、
「おはなし おはなし」という、まだ読んだことのない作品でした。

その中で、最近感じていたことを、みごとに表現してくれている文章をみつけ、
「あっ」と思いました。
それは、宗教学者であり、イスラーム研究の権威である、井筒俊彦さんという方の文を、河合さんが引用しているものでした。

われわれは、通常は自と他とか人間とぞうとか、ともかく区別することを大切にしている。

しかし、意識をずうっと深めてゆくと、それらの境界がだんだんと弱くなり、融合してゆく。

そして、一番底までゆけば、「存在」としか呼びようのない状態になる。

そのような「存在」が、通常の世界では、花とか石とか、

はっきりしたものとして顕現している。

従ってわれわれは、「花が存在している」と言うが、ほんとうは、

「存在が花している」と言うべきである。

「存在が花している」とは、まさに言いえて妙。

そして、また素晴らしいのが河合さんのコメントです。

「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」
と、あいさつしたいような気分になってくるのだと。。。

みんな、「存在」なのだ。
その存在がが、「花」していることもあれば、「ぞう」していることもあり、
そして、「わたし」しているのが「わたし」なのだ。

そう考えるとき、すべてのものに優しくなれる気がします。

安眠を妨害する蚊には、
「あんた蚊やってはりますの。命がけで血吸うて、えらい大変でっしゃろ?」なんて。。。

なぜか河合さんにならって関西弁(笑)。

「存在が花している」という言葉を頭の中で繰り返していたら、
ふと宮澤賢治の詩が思い浮かびました。

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに

せはしくせはしく明滅しながらも

いかにもたしかにもともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

・・・・・(以下省略)

これは、「春と修羅」という詩集の、「序」となっています。

これをよんだのは高校生の頃、何が言いたいのか、どこに惹かれるのか、
よくわからなかったけれど、なぜか忘れられませんでした。

「わたくしといふ現象」という言葉からは、「存在が花している」に共通する、
自と他を区別しない、ワンネスの思想が感じられます。

十数年の時を経て、賢治がこの言葉にこめた意味が、
すこしわかったような気がします。

「この言葉にあえてよかった」

素敵な言葉のかけらをみつけることが、
満員電車に揺られて通勤する今のわたしにとっては、
海岸で貝殻をひろうような、
森で木の実をひろうような、
嬉しいできごとなのです。

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2005年11月23日 (水)

ロミオとジュリエット

kamakura_027  あどけなく花びらゆらす冬菫

   君も知るのか命かけた恋

鎌倉へ行ってきました。紅葉を見に来た人々で賑わう、鎌倉駅周辺を離れて、鎌倉山へ。

素敵な雑貨屋さんで、珍しい色のパンジーをみつけたので、散策の途中にもかかわらず、思わず買ってしまいました。

お店の方によると、この、パンジーは、
「ロミオとジュリエット」という名の新種だそうです。

「どうしてこんなに可愛らしい花に、悲恋の主人公の名前がつけられているんだろう?」
と思ったけれど、考えてみたら、ロミオもジュリエットも、とっても若かったんですよね。

この、可憐なパンジーも、どこかに激しい感情を秘めているのかもしれません。

大人は、子供の感情や悩みを、軽く考えがちです。
年が若ければ若いほど、悩みも小さいと思ってしまうのではないでしょうか。
でも、自分が子供だった頃のことを思い出すと、純真さゆえに悩みも深かった。

そんな、「小さきものの深い思い」を思い出させてくれた、
「ロミオとジュリエット」なのでした。

kamakura_004 kamakura_001

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2005年11月19日 (土)

それぞれの色で

スイレンは水に サクラは春に

花は咲く それぞれの色で

最近やっと気づいた、わたしが長年持ち続けていた観念。
それは、「何事においても、人並み以上でありたい」というもの。

学生時代は、たとえ苦手科目であっても、
「平均点以上はとらなくちゃ」
「単位を落としてはいけない」
と思っていました。
そして、実際、その通りの成績を取り続けて学生生活を終えました。

社会に出てからは、学生の頃のように、
「平均点」や「合格点」がはっきりわかるわけではありません。
でも、何かにつけ、無意識のうちに、見えない「平均ライン」を自分で引いて、
なんとかその線の上に入ろうとしていたように思います。

目立った功績をあげるわけではないけれど、
何をやらせてもそこそこのことはできる。
学校や企業からすれば、扱いやすく便利な存在です。

そして、いつしか、自分でも、
「落第点を取らないこと」
つまり、問題をおこさず、何事も無難にこなせることこそが、
自分の価値だと思うようになっていました。

こんな風に思うようになった根底にあったのは、
きっと、自らの存在が「無価値」であるという想い。
「無価値なのだから、問題をおこしてはいけない、迷惑をかけてはいけない、
いつも正しくなければいけない」と。

そんな想いから生まれた行為は、
どんなに頑張っても、心からの達成感や、安らぎを与えてくれることはありませんでした。

そして、いつしか、「変わりたい」という想いが、心の中で大きくなっていきました。

もっと、自分らしいことで自分を表現したい。

けれども、なかなか変われないジレンマ。

変われないのは、自分の努力が足りないから、と自分を責める悪循環。

そんな堂々巡りを断ち切るきっかけとなったのは、
ある本との出会いでした。
その本には、こんなことが書いてありました。

「本当は皆、自己発見の道を歩んでいるのだ。
自己改善と自己発見の間には、根本的な違いがある。
自己改善は、自分が不完全で、
自らの欠落している部分を埋めなければいけないという前提から生ずる。
自己改善の見地からすると、完全とは常に努力して向かっていく理想像で、
決して手の届かないものだ。
それとは反対に、自己発見は、あなたがすでに完全であるという前提に立ち、
あなたの目的は本当の自分をよく知り、表現することにある」

「本来の輝きを取り戻すためには、どこかでもっと光を手に入れる必要はない。
光はすでにそこにあるのに、単に覆い隠されてしまっただけなのだ。
私たちに必要なのは、器から石を取り除き、器が輝きを放てるようにすることだ」

自分を変えなくても、わたしはすでに完全なんだ!
本当の自分を忘れているだけなんだ!
これは、コペルニクス的大転換でした。

この本は、アラン・コーエンという人の書いた、
「人生の答えはいつも私の中にある」という本でした。
たぶん、この本に出会ったときが、
「自己改善」から、「自己発見」へと、歩む道をかえる分岐点だったのだと思います。

曲がり角を曲がって、違う道を進み始めたら、
素敵な偶然がたくさん起こるようになってきました。

何かに導かれるように出会った新しい友達。
彼女から、あるHPを紹介してもらったことがきっかけで、
ハワイに行かなければ会えないと思っていた、アラン・コーエンのセミナーが、
日本でも開かれるということを知り、幸運にも参加することができたのです。

アランとの出会いは、光を覆い隠していた「石」を取り除く作業を加速させました。
「これもいらない」
「あれもいらない」
取り除いたたくさんの石の中には、
今まで、自分の長所だと思っていたものもありました。
「何でも人並み以上にこなす」
というのもその中のひとつです。

今までは、苦手なことも、平均以上にこなすのが当たり前になっていたので、
本当に好きなことに費やすエネルギーが、いつも不足していました。
自分の好きなことが何なのか、忘れかけていたのかもしれません。
「人並み以上にはできない」とわかっていることについては、
最初から土俵に上がらない、という面もありました。

睡蓮を土に、桜を冬に無理に咲かせようとすれば、
本来の美しさは生まれない。

わたしも、わたしの場所で、最適な時に咲けばいい。

そんな風に思えるようになったら、
自分が、どんな場所で、どんな季節に一番美しく咲くことのできる花なのか、
しだいに思い出してきました。

わたしの花はどんな色で咲くのでしょうか?

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2005年11月11日 (金)

呼び名

いつだろうあなたを呼ぶ名変えたのは

パンジーを三色すみれと呼ぶ母よ

幼稚園に通う甥っ子がいます。
この年頃の子供の多くがそうであるように、
自分の母親のことを「ママ」と呼びます。
「この子も、もうしばらくしたら、『ママ』とは呼ばなくなるのかな」
そう思ったとき、ふと、ある疑問がうかびました。

「わたしが、母の呼び名を変えたのはいつだろう」

幼い頃は確かに「ママ」と呼んでいました。
でも、いつしか、「お母さん」と呼ぶようになっていた。
小学校にあがる頃には、もう「お母さん」だったような気がします。

それは、父親についても同じ。
「パパ」lから「お父さん」へ、いつ変わったのでしょう。
父と母、同時に呼び方を変えたのでしょうか?
そういえば、自分のことも「○○ちゃん」って呼んでたっけ。

「ママ」から「お母さん」、
「○○ちゃん」から「わたし」。
発することばを変えたとき、幼いわたしは何を思っていたのでしょう。

「もうお姉さんなんだから」
と、意を決して、変えたのか、
それとも、まわりの友達や、テレビなどの影響で、
自然とそうなっていったのか・・・。

どちらにしても、小さなわたしの中で、
何かが変わる瞬間だったに違いありません。

日本語って不思議です。
「I」や「YOU」が揺るぎなく存在しているような言語と違って、
一人称や二人称が、年齢やその場の状況によってコロコロと変わります。

呼び名で一番困るのは、見知らぬ目上の方に声をかける必要があるときです。
子供の頃なら、「おじさん」「おばさん」と呼べましたが、
自分が「おばさん」と呼ばれる年になった今、そうもいきません。

「あなた」ではエラそうな感じがするし、
かといって、「奥さん」では、まるで「みのもんた」になったよう。
見た目だけでは、本当に「奥さん」かどうかもわかりません。

見知らぬ人だけではなく、友人のご両親などにも、
何と声をかけたらいいのか迷います。
幼なじみの友達のご両親であれば、昔と同じように、
「○○ちゃんのおばさん!」と、つい言ってしまいますが、
大人になってから初めてお会いする方に、しっくりくる呼び方を、わたしは知りません。

そんなときには、結局、
「あの・・・」とか、
「すいません・・・」とかで済ませてしまうことになるわけです。

昔であれば、「○○さん奥さん」や「××のお母さん」といった具合に、
その人が属する、集団での役割の名で呼べば、おさまりがついたのでしょう。

でも、集団への帰属意識が薄れて、
何に属しているかさえ、はっきりしないような現在、
役割の名で呼ぶのが不自然になってきているものの、
どこでもファーストネームで呼び合うほど、「個」を押し出すのには慣れていない、
という、どっちつかずの状況にいる気がします。

学生時代、喫茶店でアルバイトをしていたことがあります。
ご夫婦で経営している、学校の側の小さなお店でした。
アルバイトや、常連の学生たちはみんな、
ご主人のことは「マスター」と呼んでいましたが、
奥さんのことは、モゾモゾしながら「奥さん」と呼んだり、
「あの・・・」や「すいません・・・」でごまかしたりしていました。

あるとき、奥さんがふともらしました。
「みんな、わたしのこと、何て呼んだらいいか困るみたいね」

そのことばを聞いて気づきました。
「呼びにくそうに呼ばれるのは、気分が良いものではない」
ということに。

それから、わたしは、奥さんを「○○さん」とファーストネームで呼ぶことにしました。
最初は少し照れくさかったけれど、
慣れてしまえば、こんなに気分のいいものはありません。
そのうち、他のアルバイト仲間たちも、
同じようにファーストネームで呼ぶようになりました。

その後、卒業するまで、その店で、
家族の一員のように可愛がっていただいたのは、
「○○さん」と呼び始めたことと無関係ではない気がします。

そんなこともあって、わたしは、「あの・・・」や「ちょっといいですか・・・」
ではなく、なるべく名前ではっきりと、相手に呼びかけたいと思っています。

こんな風に、呼び名ひとつで悩む余地がある、ことばっておもしろいな。
人の呼び名だけでなく、花の呼び方も実に様々。
「パンジー」と英語名で呼んだり、「三色すみれ」と呼んだり。

「三色すみれ」
「三色スミレ」
「三色菫」

書き方だって色々です。
愛らしい花の名前にふさわしい、呼び方やつづり方を考えて悩むのは、
とても贅沢なことではないかと思うのです。

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