「きみの悲しみが消えたとき、
きみはぼくと会ったことがある
というだけで満足するはずだ」
・・・ぼくたちはずっと一緒だ・・・
前回の記事で、花を感じる瞑想法のことを書きましたが、「この世にこの花しかない」と思うとき、どうしても、「星の王子さま」の物語が頭をかすめます。
最近、池澤夏樹さんによる新訳で、再読したばかりということもあって。
「星の王子さま」には、今まで一種類の邦訳しかありませんでしたが、日本での著作権の期限が切れたため、新訳の出版が可能になったそうです。
書店に行くと、池澤さん以外の方の新訳本も並んでいます。
昔から大好きだったこの作品、今回読んで、今まで以上に心に染み入りました。
それは、受け取るわたしの変化によるものか、それとも、訳の違いによるものか。。。
内藤濯さんによる旧訳も、もちろん素晴らしく、翻訳が素晴らしかったからこそ、
日本でもこれだけ長い間愛されてきたのだと思います。
池澤さんも、あとがきにこう書かれています。
「ぼくの訳でも、内藤濯氏が作った『星の王子さま』というタイトルをそのまま使うことになった。この邦題は優れている。実際の話、これ以上の題は考えられない。
これには日本語の根幹にかかわる理由がある。
原題を直訳すれば『小さな王子さま』ということになるだろうけれど、元のpettitに込められた親愛の感じはそのままでは伝わらない・・・」
「星の王子さま」のタイトルは、内藤さんの名訳だったわけですね。
でも、その内藤さんの旧訳とは違う、池澤訳の魅力があるはず!
と思い、新訳を読んで、心に残った場面を旧訳とくらべてみたところ。。。
やはり、ありました!違いを感じさせる言葉が。
まず、最初は、王子さまが地理学者のいる星を訪れた場面。
王子さまが自分の星のことを話すと、地理学者は、
山のことは書くけれど、花は「はかない」から書かない、といいます。
そして、「はかない、ってどういう意味?」という王子さまの質問に対する返事が、
この言葉です。
「それは、すぐにも失われるかもしれない、という意味だよ」
この箇所は、旧訳では、
「そりゃ、〈そのうち消えてなくなる〉って意味だよ」となっています。
「そのうち消えてなくなる」と「すぐに失われるかもしれない」
似ているようで、大きく違う気がしませんか?
どちらが原文に忠実なのか、わたしにはわかりません。
(フランス語がわかる方に教えていただきたいです!)
でも、日本語の「はかなさ」の意味を、より強く感じるのは、
「すぐにも失われるかもしれない」
の方ではないでしょうか。
王子さまは、自分の星の花が、はかないものだと知って、
初めて旅立ちを後悔します。
「すぐにも失われるかもしれない」という言葉に、わたしもドキリとしました。
花だけでなく、すべてのものははかなく、すぐに失われるかもしれない。
ガラスでつくった剣の先を、喉元に当てられたような気分がしたのです。
でも、このはかなさは、今にも消えてなくなるかもしれない、
という不安定さだけを残すものではありません。
物語の終わり、王子さまは言います。
「夜、星を見てほしい。ぼくの星はとっても小さいから、どこを探せばいいか指さしては教えられない。その方がいいんだ。ぼくの星はたくさんの星の中に混じっている。だから、きみはどの星のことも好きになる・・・・・・ぜんぶの星がきみの友達になる。ぼくはきみに贈り物をあげたい・・・・・・」
「夜の空を見て、あの星の1つにぼくが住んでいて、そこでぼくが笑っている、ときみは考えるだろう。だからぜんぶの星が笑っているように思える。きみにとって星は笑うものだ!」
この場面を読んで、涙がポロポロとこぼれました。
何かひとつを心から愛すれば、それはすべてのものへの愛へとつながる。
そんなことを思って。
王子さまは、続けます。
「きみの悲しみが消えたとき(悲しみはいつかは消えるからね)、きみはぼくと会ったことがあるというだけで満足するはずだ。きみはこれからもずっとぼくの友達だよ。きみはぼくと一緒に笑いたくなる。時々こうやって窓を開けて、笑えばいい・・・・・・(以下省略)」
わたしは、また、泣きました。
22才の若さで死をを迎えた友を思って。
高校の同級生だった彼女とは、親友というほど親密な仲ではありませんでした。
お弁当を一緒に食べたり、お昼休みにバレーボールをしたり、
親しいグループの中の一人でした。
彼女が生きていたとしても、もしかしたらその後会うことはなかったのかもしれません。
けれども、星の王子さまが、どの星にいるのかわからないから、
すべての星に王子さまがいると思えるように、
彼女もここにいないからこそ、いつでもそばにいてくれるような気がするのです。
自分の病が重いものであることを自覚し、
「みんなが心配するだろうから」と、ごく、限られた友人にしか知らせず、
亡くなる直前まで、自分のことより、見舞いに来る少数の友人のことを心配していたという友。
そう、わたしは、彼女に出会えたということだけで満足しています。
この、「きみはぼくと会ったことがあるというだけで満足するはずだ」の部分が、
旧訳では「ぼくと知りあいになってよかったと思うよ」となっています。
池澤訳は、話し言葉としてはちょっとまわりくどい感じがしますが、
ここには、(ぼくがきみの前から姿を消したとしても)という意味合いがこめられているので、このようになっているのだと思います。
「消える」や「去る」という言葉を使わずに、その意味を伝えようとしているので、
このような言いまわしになっているのだと。
「知り合いになってよかった」は、セリフとして自然ですが、
(姿を消したとしても)という意味は伝わりづらくなっている気がします。
他の新訳本ともくらべたりすれば、また違った発見があるのかもしれませんが、
わたしは内藤さんと池澤さんの訳でもう、充分満足!
一冊の本が、新しい翻訳によって、また違った感動を与えてくれる。
やっぱり言葉っておもしろい!
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